2016.9.6 - 9.18
星玄人 Hoshi haruto
St.photo exhibition 25横浜
35mm モノクロ 11×14in. 25枚
ほしはると・略歴 >>
最近は写真を撮ったり発表する際に場所を決めて括るように意識している。
何が映っているか?で見る人は写真を一先ず判断する訳だし、今は場所を限定して撮影に挑んだ方が自分でも動き易いと思うからなのだが、自分と同じように写真を撮っている人等からは街を撮っているのか?それとも街で撮っているのか?と聞かれる事が多い。
前者は時代と場所の記録性、後者は極めてプライベートな動機からなる心情、と一括りにすれば容易いが、瞬く間に過ぎて行く限られた私の時間を、もっと写真に定着させる為には、自身の要求するイメージにばかり捕われてしまわない様に、客観視は必要だし時に戸惑って佇んだり、道間違えて迷い探したりと、少し面倒な事柄が写真達の間に含みを持たせるのでは無いかと常々おもう。勿論、私の個人的な「ああでもないこうでもない」は歴史という途方もない事実の流れの中では、まるで無かった事として扱われてしまうのだろうな。
これまで色んな人達に自分の写真をみてもらい感想等を伝えて頂いたが、実は私の写真を一番長く沢山見て居るのは絶対に私自身なのであろう。
私の写真について様々思考を張り巡らせているのは、ほんとは私だけなのじゃないのかなあ?だからこそ私は自分が少しでも面白くならないと嫌なのだ。そうでも無いと見る人に想像力を与える事等は到底出来はしないのではないか?基本他人の撮った他人の映る写真なんて通りすぎて行くだけの物なのだから。
昔、信頼しているある人から自分の写真について「貴方自身の事については、写っているモノ以上に見る人には伝わるとは思う。でも世界はもっと豊かで、此れだけでは豊かな世界に負けてしまうのではないか?」と意見して貰った事があって、その言葉は今でも自分に突き刺さってはいる。
私は非常に欲張りな人だから、自分が消え失せて無くなったって、自分の記憶や体験を誰かに遺したいと思ったりして写真を撮ってプリントして展示をしたりしている。私は見るる人の反応を含めて、先ずは自分が楽しみたいし、気付きたいから写真を行っている。何が記録されて居ようと其所には私の記憶が染み付いて居なければ創る事を続けて行のは、たぶん私には無理だ。
あまりに自分本意な思考には、私自身もうとてもうんざりしているが、説明的なランドマークを自分の写真で表したいとはまだ思えない。今は(街で撮った)写真を重ねる事で、横浜を写した人になりたいかな?と思っている。
ほんとはそんなに難しい事を何時も考えている訳ではないのですけれどね。前回8月の展示に続いてまたしても地元横浜で撮った写真展です。どうぞ宜しく。
星玄人
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